高倉健さん。
日本を代表する最後の映画スターであり多くの方々の憧れや尊敬の対象であった方です。
健さんは日頃から筋トレで体を作り映画撮影に臨んでいたことを知りました。
今回は高倉健さんと筋トレとの関わり書いてみたいと思います。
合わせて筋トレだけでなく健さん以外の人達からの証言を元に健さんの人柄、エピソード、愛用品なども混えて書いてみたいと思います。
この記事を読むと高倉健さんの人柄や生き方、なぜ人々から尊敬され若々しかったのかを理解することができます。
昨今の日本人が失くしつつあるものを映画で表現し、現実の世界でも高倉健という俳優としてイメージを貫き通した稀有な俳優さんでした。

ここでは東映に入社した頃から遺作「あなたへ」をはじめ特に50代以降の健さんにフォーカスして書きます。
※この記事では高倉健さんの肖像権を尊重し健さんご本人の画像は使いませんのでご理解のほどよろしくお願いします。
目次
高倉健さんは生きるために映画俳優の道へ

生きるために俳優の道へ
スカウトでマネージャーから俳優へ
健さんは1931年生まれで明治大学を昭和29年に卒業されています。
当時大学生は「学士さま」と呼ばれるくらいに少ない存在でしたが空前の就職難で希望の商社の働き口がなく一旦帰京し家業を手伝っていました。しかし、
健さんは「このままではダメになってしまう、、」と強い危機感を感じ、結局再度上京することを決意。

ただ、なかなか仕事がなく東映のマネージャーとして喫茶店で面接を受けました。
でも当時では珍しい身長180cmの長身であの容姿。すぐ俳優にスカウトされ、東映に入社。
若い頃の健さんは今の俳優さんにはないタイプのイケメンですね。
「俳優は体が資本。鍛え続けなければならない」

自らの信念のために体を鍛え続けた健さん
健さんの出身地方の九州は当時俳優を格下に見る風潮が残っていて、健さんもその影響で初めてドーラン(映画や舞台に出演する俳優が顔に塗る物)を塗ったときは情けなくて涙が出たそうです。
健さんは1970年前後の時代においてもすでにウエイトトレーニングを定期的に行っており映像も残っています。日本で最も早くウエイトトレーニングを取り入れ体を鍛えた俳優です。
当時、バーベルやダンベルは今ほど一般化されていませんでしたが、健さんがプレートに鎖をつけて首を鍛える白黒映像を見たことがあります。
俳優の北大路欣也さんはテレビのインタビューで若い頃健さんの筋トレに付き合わされて「もう、勘弁してください、、」というほど鍛えらたとおっしゃってました。
若い頃の健さんがベンチプレスで100kgを軽々と挙上していたという証言もありますし、ロバート・ミッチャムと共演したハリウッド映画「ザ・ヤクザ」(1974)で、ラストの殴り込みシーンでの健さんの肉体、特に大胸筋の発達具合から見て、ベンチプレス120kg以上は挙がると思います。

健さんは「俳優は体が資本なんだから鍛えるのは当たり前」という信念があり、
若い頃はもちろん、晩年まで日々鍛錬を怠ることはありませんでした。
徹底して自己管理ができる自分に厳しい人
健さんは徹底して自己管理ができる自分に厳しい人でした。
撮影現場でも一切座らず常にストレッチやランニング、腕立てを欠かさずに行っていた健さん。
アルコールやタバコ(『八甲田山』の撮影を機に禁煙)を一切嗜まず、大好きな甘いものも節制しながら食べる。
徹底的に肉体管理を行い続けるストイックさ。
主演俳優という責任を果たすために健さんが選んだ方法ですが、本当に自分に厳しい人でした。
危機感を抱き東映から独立!

人生を賭けて東映を退社
1年で15本のヤクザ映画に出演
若い頃の健さんは任侠映画(1965年ごろ)で年間15本を撮影していて、入れ墨を描いてもらう時間が貴重な休み時間だったそうです。
日々、疲労困憊の健さん。それでも根をあげずに撮影に全力で臨んでいました。
その後任侠映画のヒット連発でスターになりましたが時代は少しずつ変わり始め、
東映のヤクザ路線も任侠ものから実録もの(仁義なき戦いなど)に変わり、菅原文太さんが台頭。健さんは自分の演じたい役柄などの考えもあり「神戸国際ギャング」(1975)を最後に東映を出ることになりました。
日本のスターから世界のスターへ そして文化勲章受賞!

栄光への道
過酷な『八甲田山』の撮影現場 あまりの辛さに逃げ出す俳優も!
1976年に東映を退社した健さんは「八甲田山」「幸せの黄色いハンカチ」などに次々と主演、ヒットさせてヤクザ俳優のイメージから脱却に成功しました。
その中でも特に過酷な冬の八甲田山で実際に撮影を行った映画『八甲田山』。CGがなかった当時「八甲田山」での撮影は苛烈を極め、健さんも凍傷になりながら3年越しでの撮影となり、あまりの辛さに現場から逃げ出す俳優もいました。肉体的な厳しさだけでなく、経済的にも映画『八甲田山』の撮影は健さんを追い詰めました。例えば『八甲田山』の撮影に集中するためコマーシャルなどを全て断ったため、別荘などの資産を切り売りしながらの俳優生活だったそうです。
1つのことを成し遂げる力がすごい健さん
健さんは「八甲田山」の撮影のためそれまで1日40本吸っていたタバコを一切やめてしまったそうです。
僕は仕事柄、禁煙の大変さをよく知っているだけに健さんの意思の強さには驚きます。
今は禁煙するためのお薬もあり約65%の成功率で禁煙できますが、健さんの時代は意思だけ。しかも男はタバコを吸うものという昭和の文化もありました。
禁煙というストレスを受けながら過酷な撮影を成し遂げる高倉健という人の凄さにはもう驚くしかありません。
76年の『君よ憤怒の河を渉れ』、『八甲田山』、『幸せの黄色いハンカチ』のヒットで東映のスターから日本のスターへと上り詰めた健さん。
94年にはマイケル・ダグラス、松田優作との共演で有名なハリウッド映画「ブラック・レイン」にも出演。
99年の『鉄道員』の大ヒットを経て
2013年10月25日、
俳優として4人目の文化勲章を受賞。
このように素晴らしい実績のある方ですが、若い時から晩年に差し掛かっても、謙虚さ、優しさは全く変わらなかったそうです。
多くの人々に慕われた高倉健さんの人柄とは?

健さんの優しさと思いやりが多くの人々の心を惹きつけた
多くの人達に尊敬され、愛された健さんの人柄
NHKの「プロフェッショナル 仕事の流儀」というドキュメント番組があります。
健さんはその手の取材は受けないのですが、番組内ではっきりと「僕もそろそろ『持ち時間』が少なくなってきたので伝えたいことがあって、、、」とおっしゃってました。その時点で81歳。
遺作『あなたへ』制作現場の健さんを追ったドキュメントでした。
※僕は健さんの遺作である「あなたへ」のDVDを所持していますが、映画本編以外にこのDVDのために健さんがロングインタビューに答えています。
番組の中で健さんは積極的に共演者や地元の方々との触れ合い、特に子供たちとの触れ合おうとするシーンがあり健さんの人柄を忍ばせます。
一番印象に残ったカットは、健さんが撮影現場に現れて、現場スタッフの若い女性の肩をポンと叩き、『誕生日、おめでとう!』っておっしゃったシーンです。
現場の若いスタッフの誕生日をちゃんと記録、記憶していて、それをさりげなく伝える。言われた女性は恐縮してましたが、
そりゃ、高倉健さんからいきなり誕生日を祝われたら固まるでしょう。
謙虚で人を分け隔てなく接する人柄。まさに男の中の男です。
実年齢よりも若々しかった健さん その理由は?
実年齢よりも若く見えた健さんですが、スタッフや健さんに会ったファンからはよく「健さんって、若い。同年代の人よりも10歳以上若い」という話をよく耳にしたことがありました。ここまで読んでくださった方は薄々気づいてらっしゃると思いますが、
理由は徹底した自己管理です。
酒、タバコは嗜まず、食べすぎない。筋トレを中心にランニングやストレッチなど体を動かし続け、どのような種類かまではわかりませんが、サプリメントも服用していました。僕は筋トレを中心とした自己管理の効果が一番大きかったと思っています。
それから健さんは無類のコーヒー好きで1日に10杯以上飲んでたそうです。多い時には20杯にもなり、それにお付き合いしていたスタッフが「もう飲めません。」と健さんに伝えたところ、それ以降はコーヒータイム(ただし1日10杯以上)のお誘いは無くなったそうです。
コーヒーにはコップ1杯に約100mgのカフェインを含みますので、さすがに量が多すぎますが健さんが飲むコーヒーはすべてブラックだったので、血糖値には影響はなかったと推測します。「プロフェッショナル 仕事の流儀」のインタビューでも血糖値の測定は毎日自分でしていたとおっしゃってました。

高倉健さんが愛したジャケットBracutaG9!
ところで、
健さんほどの人になると、なかなか一般人では気軽に購入できない高価な品々を愛用していました。車はベンツ、時計はロレックスで(気が合った人にはその場で外してあげてしまうそうです。凄すぎる!)クルーザーも複数所有。しかし、私生活はまったく公表せず、プライベートは徹底して公にしませんでした。
理髪はそのお店に健さん専用の部屋があり、東京にいるときは毎日通っていたくらいで、そのお部屋は事務所代わりにも使っていてFAXもありました。
健さんは大スターなので当然お金持ちなのですが、健さんが愛用した高級品の中で一般人でも頑張れば手が届くのが、Baracuta G9(バラクータジーナイン)というイギリス製のスウィングトップ(ジャケット、ジャンパー)です。
遺作「あなたへ」のDVDの表写真でも着用しているジャンパーです。
パッと見は普通のジャンパーですが、イギリス製で1着35000円〜60000円以上します。
このジャンパーは健さんだけでなく、スティーブ・マックウィーン、エルビス・プレスリー、フランク・シナトラなど、世界のスター達が愛用していました。
このデザインのジャンパーの元祖がこのBracutaG9(バラクータジーナイン)です。
裏地が英国製らしいタータンチェックになっています。

BracutaG9のロゴと英国伝統のタータンチェック
同じ様なデザインのジャンパーが多くの世界中のメーカーから発売されています。発祥の地のイギリスからもよく似たデザインで複数のメーカーから発売されていますが、やはり元祖はBracutaG9。そのブランド力は揺るぎません。健さんはプライベートでもこのジャケットを愛用しており、10着以上持っていて几帳面な健さんは、クローゼットに少しずつ色の違うBracutaG9をグラデーションにして、毎日撮影前にどれを着るか選んでいました。
書籍からの情報によると、健さんのお気に入りの色はネイビー(藍色)とタン(濃いのベージュ)。
1970年代の健さんが主演した作品にもBracutaG9を着用していたことが確認できますが、70年代は1ドル360円でしたのでBracutaG9の当時の価格を今の金額になおすと1着10万円は軽く超えていたと思います。
BracutaG9は時代を問わず健さんの作品内でも見つけることができます。
例えば
「新幹線大爆破」
「ザ・ヤクザ」
「居酒屋兆治」
NHKドラマ「あにき」
「あなたへ」
特に「あなたへ」では劇中の前半途は「タン」と呼ばれる濃いめのベージュ色、ラストシーンではダークネイビーのBracutaG9を着用されています。
この映画に出演中はずっと着続けている感じです。
「プロフェッショナル 仕事の流儀」の中でインタビュアーが映画「あなたへ」の後半でBracutaG9の色が変わっていることを質問すると、主人公の心の変化を表していると答えておられました。役作りのためかもしれませんが、健さんは出番がない時もずっBracutaG9を着用していました。
健さんのBracutaG9への想い、強い愛着を感じます。
ところでそのBracutaG9なんですが、実は僕も数着持っています。

所有するBracutaG9
BracutaG9は高級品なだけあって作りはしっかりしていますが、同じサイズのはずなのに寸法に少しバラツキがあるのと、イギリス製なので袖丈が長く、手首のニットの周囲が大きくて手首周りが17センチの僕にはゆるすぎます。
僕は健さんの様に手足が長くないため、袖丈とニット部分を仕立て屋さんで調整してもらってから着用しています。
BracutaG9は高級品で簡単には購入できませんが、健さんが愛用していた同じメーカー、同じ色のジャケットを切れるだけで嬉しい気持ちになります。幾つになってもファン心理ってこういうものなんですね。
注意)2022年9月現在発売されているBracutaG9は生前健さんが着用していたものとほぼ同じですが、材質(表地が綿100%からポリエステル50%綿50%に変更)、デザイン(以前は少しダボっとしていましたが現在のBracutaG9は英国で製造はしているものの、イタリア資本の会社になったのでデザインがイタリアっぽく比較的タイトになっています。)が少し変更されていますのでご注意ください。
最後に
最後に健さんの座右の銘をご紹介して終わりにしたいと思います。
「行く道は精進にして忍びて終わり悔いなし」
健さんの座右の銘です。健さんの人柄や現代に合わせた僕なりの解釈も少し入っていますが、この様な意味の言葉です。
『自分が選んだ道である限り、どんな過酷な状況に身を置こうとも、自分の役割を果たし、夢を実現するまで努力は惜しまない。たとえ、その途中で人生が終わっても悔いはない』
この言葉は健さんと親交があった比叡山の千日回峰行(仏教において最も厳しいとされる修行。二回満行した人は400年の歴史で三人だけ)を二回達成した大阿闍梨の酒井雄哉さんから送られた言葉です。
酒井さんはご自身の著書の中で健さんは
「お侍さんの様な方。毎日刀の切っ先を歩いてる様な方」と書いておられました。
自分に厳しく、人に優しい。
俳優として映画の中の自分のイメージを大切にするプロフェッショナルな人であり、現実の健さんも強くて優しく謙虚な方でした。
高倉健さん。
唯一無二、
天下無双の存在でした。